最後の旅行
██、貴方が幻覚の泥沼に陥り、陶酔の中で霊と通じる媒介となることを願う。
――――――――――――
今朝も酷い頭痛と共に目が覚めた。
頭をギリギリと締め付けるような痛みが襲う。あまりの不快感に、ホセは顔を歪める。
「うぅ……。」
小さな呻き声を上げながら、真っ白なシーツの中で身動ぎする。痛い。痛い。それしか考えられない。どうやってこの痛みから逃れればいいのかも分からない。
ホセは暫くそうやってベッドに丸まっていたが、突如思い立ったように毛布を払い除けた。
エウリュディケ荘園の長い廊下を、ゆっくりと歩いて行く。痛みに耐え、時折声を漏らしながらも、何かを目指して足を進める。
着替えもせずに部屋を飛び出してきたホセは、部屋着に室内用スリッパを引っ掛けただけの、だらしない格好をしていた。こんな格好で人前に出ようだなんて、英国貴族失格だ。同じ客人である淑女やお坊ちゃんが見たら顔をしかめることだろう。
しかし、ホセが自室から中庭まで辿り着くまでの間、他の客人どころか使用人にすらも出会わなかった。
中庭へ続く扉を開けると、眩しい太陽の光が差し込んできて、目を細める。日の高さからしてまだ朝方だろう。普段なら皆が朝の支度をしている頃だ。
ホセは室内用スリッパのまま中庭に足を踏み入れると、何かを探すように辺りを見渡し始めた。よく手入れされた植物達。蛙を模した石像。ふらふらとした足取りで、葉の隙間まで探し回る。その姿はまさに一心不乱で、まるで誰かに盗られる前に見つけなければと焦っているようにも見えた。
「っ……!」
ふと、その足は中庭の角隅で止まった。
植物を手入れする為の道具が並ぶ、大きな棚。その影に隠れるように、ひっそりと目立たない場所に立て掛けられている、古びた傘。アンティークと呼ぶべきだろうか、随分と年季が入っているように見える。真っ黒な体に、不気味な札をべたべたと貼り付けられたそれは、まさしく今ホセが探している物だった。
「は…………、はぁ…………。」
目当ての物を見つけた安堵感からか、溜息が漏れる。いつの間にか張り詰めていた体からも、一気に力が抜けた。
「……よかった……。」
心底安心したといった様子で一息つく。気が抜けた所為だろうか、先程まであんなにホセを苦しめていた頭痛すらも、和らいだような気がしてきた。
「……行こう。誰かに見られる前に着替えないとな。」
そう独り言を漏らすと、傘を片手に持ち、中庭を後にした。
――――――――――――
すっかり着替えを済ませた頃には、定められた朝食の時刻を過ぎていた。少々遅刻してしまったと思いながら食堂へ顔を出してみたが、他の客人の姿は見当たらなかった。食事を済ませた気配すら無いところを見ると、夜が明ける前には既にこの荘園を出発してしまったのだろう。傘を片手に持ったホセは、不満そうに頬を膨らませた。
「なんだ、別れの挨拶の一つも無しとは、薄情な奴らだ。」
出発前に一言挨拶を交わそうと思ったのに、当の本人達がもう居ないのでは仕方ない。
「……食事が済んだら私も荷物をまとめるか。」
誰も居ない食堂に独り言が響いた。今日の朝食はとびきり豪華なものだったが、昨晩食べた海鮮リゾットの方が美味しかった。そんなことを考えながら、最後のオレンジジュースを飲み干した。
――――――――――――
出発の準備をしている間に、突然天気が悪化したらしい。窓の外は酷い嵐が吹き荒れていた。数刻前、中庭に出た時は雲なんて全く見ていなかった。雨の気配にすら気付けないとは、船乗りとして心底情けない。
ザーザーと窓に打ちつける雨の音を聞きながら、どうしたものかと考える。エントランスホールの椅子に腰掛け、荷物の入ったトランクケースを床に置いた。先程中庭から持ってきた傘は、大事そうにホセの手元に抱えられている。
――この豪雨の中、無理に飛び出して行く理由は無い。一先ず雨が弱まるまでは此処で待たせてもらおうか。
「バーデン様」
いつの間に現れたのか、荘園の執事が側に立っていた。
「今すぐ御出発なさるようでしたら……送迎の者を表に待機させますが。」
ホセが困っているだろうと気を利かせてくれたようだが、当のホセは首を振り、その提案を断った。
「いいや、嵐が弱まるまで此処で待つよ。……それに、"彼"は雨が嫌いらしいからね。」
何の事やらといった様子で、反応に困った執事は眉間に皺を寄せた。
「……ゴホン。かしこまりました。それでは雨が止み次第、門までお越し下さい。」
そう言って執事は身を引き、扉の向こうへ消えて行った。先程、あの執事から「ゲーム」に勝利した報酬として、多額の賞金を受け取った。渡す物は渡したのだから、もう彼がこの場に姿を現すことは無いだろう。
――――――――――――
相変わらず雨は降り続いている。椅子で寛いでいたホセは、いつの間にか居眠りをしていた。傘を大事そうに抱えたまま、寝息を立てている。
ザーザーという雨音が、エントランスホールに響き渡る。誰の声も聞こえない。時折ゴロゴロと雷のような低音が混じり、ホセの寝息すらもかき消す。
ホセの足元に、雨水が溜まり始めた。何処から?窓の隙間から、それとも雨漏りだろうか?川のように流れるその水は、ホセの両足を飲み込んでしまった。
雨水はどんどん水位を増していく。あっという間だ。ゆっくりと瞬きをする程の時間で、膝までの高さへ上ってきた。それでもホセは目を閉じたまま眠っている。
水は容赦無くどんどん上ってくる。腰、胸、首。とうとう顔の高さまで到達した雨水は、ざぶんと音を立ててホセの呼吸を奪った。奔流の川に全身沈められたような状況でも、水中で髪を靡かせ、傘を抱えたまま目を閉じている。
どのくらい時間が経っただろう。とうとう呼吸が続かなくなったのか、突如目を見開き、ガボッと口から空気の泡を吐き出した。
「はぁッ…………………!!!!!」
大きく息を吸い込み、椅子から飛び起きる。
「はっ………、はぁっ……………はぁ…………。」
周囲を見渡し、状況を把握する。場所は全く変わっていない。荘園のエントランスホール。今見た光景が夢だったと悟り、息を吐く。生身の手で頭を抱える。髪も、服も濡れていない。強いて言うならば、汗をかいてしまった。
「あぁ……。大丈夫。夢を見ただけさ……。」
側に居る誰かに声を掛けるように、そう呟いた。窓の外を見やると、嵐はすっかり鎮まったようだ。
「そろそろ出発しよう。」
そう言うと床に置いていたトランクケースを手に取り、椅子から立ち上がった。
――――――――――――
雨上がりで道が悪い中、泥を飛ばしながら車が走って行く。車に乗るのは初めてではないが、海の上にいる時間の方が長かったホセにとっては、あまり慣れたものでもない。ガタガタと車が跳ねる度に、後部座席で怪訝な顔をしていた。
「道が悪いとはいえ、これは堪えるな。まあ、馬車を拾うよりマシか。」
「これから港に向かうんだ。そして船に乗って、イギリスへ行く。」
「ああ、そうだね。全て上手くいく。君を連れて行けば大丈夫さ。」
運転手の返事も聞かずに勝手に話している所を見ると、ほとんど独り言のようだ。
「失礼ですが、私に話しかけておられますか?」
「ああ、いや、君じゃない。彼と話しているんだ。」
耐えかねた運転手が声を掛けるも、訳の分からない返事しか返ってこなかった。運転手は「頭がおかしい」といった顔で肩をすくめるが、ホセの眼中には入っていない。
『英国ですか。』
ホセではない、3人目の声。
人間味の無い、脳に直接響くようなその声は、同じ車内に居る運転手の耳には聴こえていないようだ。
『英国に行く前に一つ、私の頼みを聞いていただけませんか。』
「頼み?」
山道を抜け、車内の揺れも収まってくると同時に、流れる景色が街中へと変わってきた。
『中国の故郷が、今どうなっているのか見てみたい。』
「中国……?君は中国から来たのか。」
思わぬ提案に、ホセが興味を示す。その視線と声は、両手で大事に抱えているアンティークの傘へ向けられていた。
『ええ。元々は中国で生まれました。それから私は骨董品として沢山の人間の手に渡り、運ばれ、幾つもの海を越えて来た。』
「……思い出の故郷に帰りたいと?」
『まさか!良い思い出などあまり無い地です。何百年も経った今、どう変わり果てているのか見てみたい。ただそれだけです。単純な興味ですよ。』
まさかお願い事をされるだなんて思ってもいなかったホセは面食らった。
「中国か……。参ったな、随分と遠くに行きたがるものだ。」
『断ってくれたって構いませんよ。』
声はそれだけ言うと、ホセの返事を待った。ホセの目的地であるイギリスとは全く方向が違う上に、軽い気持ちで顔を出せるような距離ではない。正直ホセはかなり悩んだが、この後イギリスへ行き自分がやろうとしている事を考えると、その前に旅行の一つでもしたって良いんじゃないか、という気がしてきた。もしかしたら、これが最後の自由時間かもしれない。
「分かった、いいだろう。一緒に旅行といこうじゃないか。金ならいくらでもある事だし。」
『ありがとうございます。』
早速ホセは、運転手に目的地を港から駅へ変更するように伝えた。
――――――――――――
中国までは、いくつもの列車を乗り継いで行く必要がある。おおよそ一週間以上を列車の中で過ごす事になるのだ。長い旅だが、ホセにとってこんなものは慣れっ子だった。船に乗るのを職業としているのだ。長期間の車中泊だろうと、閉鎖空間だろうと、問題はない。何より今のホセには同行者が居る。話し相手に困ることは一度だって無かった。
列車に揺られながらホセが話すのは大抵航海の話だった。今まで行った場所。達成した仕事。可笑しな船員の話。――傘に宿る声から喜怒哀楽を感じる事は滅多に無いものの、これらの話が新鮮ではあるのだろうか、茶化すこともなく真剣に聴いてくれた。
「そこで私は、エウリュディケ荘園にその傘があるという噂を聞いた。」
この日は、自分が荘園に訪れた目的について話していた。
「……君を連れてイギリスへ戻り、女王陛下に君を差し出すんだ。そうしたら、誤解だったと分かって貰える。全て元通りになるんだ。父も、仲間達も、皆帰って来る。」
夢物語を語るような口調でそう話すホセは、どこか遠くを見つめていた。傘に宿る声は「何故、私を渡すと家族が帰ってくるのか?」と尋ねることもせず、黙ってその話を聴いていた。話の辻褄が合っていないが、ホセは全く気付いていないようでもあった。
『そうしたら私達はお別れですね。』
「ああ。そうだな。」
そう話すと、最後の消灯時間が訪れた。
――――――――――――
長い旅路を経てようやく中国へ辿り着いた。手頃な宿を探し出し、受付に足を運んだ所で、第一の試練に衝突する。
「参ったな……中国語なんてまともに話せないぞ。勉強するべきだったか。」
『私が通訳しましょう。私が言った通りに真似をしてください。』
ここは傘の声の助け舟に乗ることにした。辿々しい中国語で受付に声を掛ける。
「やあ、部屋は空いてるかな?」
「…………。」
受付の男は品定めする様にホセの身なりをジロジロと見た。大方、服装からしてかなり身分は高く金を持ってはいそうだが、左目に走る大きな傷と義手から「訳あり」なのではないかと警戒したのだろう。ただでさえ異国の人間だ。何かトラブルを持ち込む気なのではないかと目が訴えている。
「なに、ただの観光客だよ。本当さ。」
そう言うと同時に、ホセは金の入った袋を受付テーブルの上にドッサリと置いて見せた。
「この通り、金ならある。そうだな……一週間程滞在させて貰おうかな。」
受付の男はギョッとした顔をしていたが、すぐに態度を変えるとあっという間に宿泊の手続きを済ませてくれた。
「通じたらしいな。」
向こうからすれば決して流暢とは言えない中国語だっただろうが、会話が成立さえすれば何ら問題はない。男に手渡された部屋の鍵を指に引っ掛けながら、上機嫌に廊下を歩く。
「君のお陰で不自由なく過ごせそうだ。」
『それは良かった。』
「はぁーーっ疲れた!」
部屋に入って早々、荷物を放り出してベッドに飛び込むと、ボフッという音を立てて全身が沈む。中国の宿はどんなものかと思ったが、予想していたよりも良い部屋に泊まれたようだ。今の所不満は無い。長旅の疲れからかホセは暫くそうやってベッドに沈んでぼーっとしていたが、突然何かを思い出したように跳ね起きた。
「そうだ、酒。酒を買わないと……。」
そう呟くと傘を掴み、慌てて部屋を飛び出した。傘の声に通訳を頼み、受付の男から酒を売っている店を教えてもらった。そうして慌ただしく走り回り、部屋に帰って来た時には何本ものボトルを両手に抱えていた。どれもこれも極端に度数が高いものばかりで、嗜好品として楽しむ為に買ったとは思えなかった。
『また酒ですか。』
傘の声の調子からして、列車で旅をしている時もこうだったのだろう。
『何です?これは。』
「私は睡眠障害があってね……、酒を浴びて酔い潰れないとまともに眠れないんだ。」
『ああ、成程。それで毎日酒を飲んでいた訳ですね。余程の愛酒家なのかと思っていました。』
「本当は好きでもないよ。恥ずかしい話さ……。医者からは依存症だと言われたよ。」
『それはそれは。』
ホセはそう話しながらベッドに腰掛けて、早速開けたボトルを口元へ持っていき、ラッパ飲みで一気にアルコールを流し込んだ。
「う……っぷ。」
口元を拭い、ぼんやりとした目で部屋のテーブルを見やる。荷物と一緒に傘が立て掛けられており、そのすぐ側に、人が立っているように見えた。疲労と重なって悪い酔い方をしたのだろうか。チカチカと現れては消える。最初こそはっきりと視認出来なかったが、段々と鮮明になっていく。
恐ろしく細い、背の高い男だ。大きな襟の付いた、袖の長い中華服を着ている。およそ生者とは思えない程青白い肌と痩せ細った身体は、ゾンビやミイラと呼称するのが相応しいだろう。しかし、一般的にゾンビといわれて想像する物のように正気を失っている訳では無く、その瞳は真っ直ぐとホセを見据えていた。
「ぁ……、うぅん。君、思ったより背が高いんだな。」
『おや、見えるのですか。』
この幻覚の男が傘の声そのものだと、何故そう思ったのかは分からないが、何となく彼だろうな、と思い口に出してしまった。むしろそれは正解だったようで、彼もまた自分の姿が見えている事に驚いたようだった。
『お久しぶりです。』
久しぶり?君を視認するのは今が初めてだ。そんな疑問が浮上しかけたが、泥酔の波に飲み込まれ、直ぐに頭の隅っこへと追いやられてしまった。
『荘園でもその調子だったのですか?』
背の高い男はスルリと身体を動かし、ホセと同じようにベッドへ腰掛けた。幻覚と隣同士並んで喋っているという奇妙な状況に、ホセは少しだけ可笑しな気分になった。
「ああ……夕飯で出される酒をボトルごと部屋へ持ち帰ったり、夜な夜なキッチンを漁りに行ったりしたかな。あはは、情けないね……。」
『泥棒のような真似ですね。』
「睡眠障害の事を誰にも知られたくなかったんだ……。他の客人にも、使用人にさえも!まあ、キッチンの酒が減っていたら、使用人にはもしかしたらバレていたかもしれないがね。」
『他の客人。貴方以外にも客人が居たのですか。』
背の高い男は尋ねた。そういえば、ホセが傘を中庭から持ち出した時、荘園にはホセ以外の客人は既に居なかった。
「当初は……私の他に四人居たかな。」
『へえ。私が会ったのは一人だけですね。』
「ああ、そうだ、君が会ったのは確か、調香師の……。」
そこまで声に出して違和感を覚える。会った?いつ?私はいつの記憶の話をしている?
「……え?だって……彼女は私より先に帰って……。」
彼女は世が明ける前に荘園から出発した筈だ。しかし私が今言おうとしたのは何だ?傘の彼は彼女に会っていない。会っていない筈だが。記憶に蓋がされているように、何も思い出せない。
「え……?あ、あれ……?」
暗闇。波の音。腐敗した魚の匂い。貝殻の混じった砂利を踏み締める感触。航海をしていた頃のものではない。ごく最近の出来事だ。これは何だ。全く身に覚えがない。この記憶は何だ?
「あ、う、うぅ……」
目から勝手に涙が溢れてきた。やはり悪い酔い方をしたのだ。思考も視界もぐるぐる歪んでいる。
「だって……彼女はあの村で……。……?あ、あれ……?」
『ええ。ええ。そうですね。私たち二人でやったんです。』
いつの間にか隣に座る彼が背に手を当ててくれていた。幻覚ではあるが、「触れられている」と意識すれば不思議と感覚が伝わるものだ。頭の中がぐちゃぐちゃで、勝手にボロボロと溢れ出す涙を止めることも出来ないまま、訳も分からず泣いた。
『大丈夫。何もかも上手くいく。大丈夫。』
混濁した意識の中で、彼がそう語りかけてくれているのが聞こえた。
――――――――――――
「うぅ……腹が減りすぎて気持ち悪い……。」
みっともない寝起きだった。ぐわんぐわんと頭が揺れるような感覚はあるが、いつか食らったギリギリと締め付けるような酷い頭痛に比べるとずっとマシだ。それに、このくらいはよくある事だ。
『ろくに食事も摂らずに寝たからですよ。』
相変わらず背の高い男の幻覚は、ホセの目の前に居た。脳がはっきり彼の容姿を覚えてしまったのだろうか。人の姿が見えた所で困る事など大して有りはしないが。
「疲れてたからとっとと寝たかったんだよ……。おぇっ……寝る前の記憶が無い……。」
ぼやきながら朝の支度を始める。幻覚の彼はというと、部屋の真ん中に立ちながら、行き来するホセを目で追いかけている。窓から差し込む明るい日差しのお陰か、彼の顔の半分を覆う真っ黒な模様に初めて気が付いた。一見、皮が剥がれて筋肉の筋が露出しているようにも錯覚するそれは、彼が生者ではないという事実を後押ししていた。
「どこか適当な食事処に行こう。」
肩章の付いた赤いジャケットを羽織り、何時もの格好に着替えたホセは、傘を片手に街へと繰り出した。周辺で一番賑わっている中華街に足を踏み入れると、人の波の隙間から、立ち並ぶ派手な看板や大量の提灯が目に入る。まだ昼間だというのにも関わらず、ひたすらに眩しく赤い。そんな印象だった。ホセは様々な国を旅し、知っているつもりだったが、今まで見たことのないタイプの独特な文化に目を奪われた。
食事処に入ったはいいものの、メニューの字が読めず難航する。傘の彼が『教えて差し上げましょうか。』と呼びかけてきたが、ホセは意地を張ってそれを断った。結果、とびきり辛い料理を食べる羽目になって舌が焼けた。
本来の目的である、傘の彼が行きたがっている故郷というものだが、彼の言う地名と橋の名前しか手掛かりがない。何せ彼がそこに住んでいたのは何百年も昔の話だ。すっかり消え失せ、別の地名になっていてもおかしくはない。食事処の店員や、街の人間に地名を尋ねて回った。あらゆる人間の「恐らく此処の事だろうか?」という情報をかき集めて形にすれば、目的地へ辿り着く目処がつきそうではあった。
「君が行きたい場所というのは、ここから3つか4つ隣の街にあるらしい。近いうちに見に行ってみよう。」
メモを書き記した紙を見ながら街を歩く。今はホセの目に彼の姿は映っていないが、片手に握りしめた傘に声を掛ける。一先ず宿に帰ろうかと思った所で、頬に雨粒がポツ、と滴った。
「ん、雨か……。参ったな。」
周囲を見渡したが、咄嗟に雨を凌げるような都合の良い屋根は無い。そうこうしている間にも、雨は瞬く間に勢いをつけていく。
「うわっ……。悪いが、少しの間君を使わせて貰ってもいいか?」
手に持つ傘に尋ねる。が、返事は無い。まさか留守なんて事は無いだろうに、傘は一言も声を発する様子がない。
「何だ?だんまりか。後で文句を言ったって聞かないからな。」
機嫌でも損ねているのか。と思ったホセは、傘の返事を待たずに留め具を外した。一思いに広げようと手を掛けた瞬間。
『止せ。』
ホセの肩がびくりと震えた。たった2文字の言葉だが、普段の彼の言葉遣いとは違う、強い口調だと分かった。降り注ぐ雨が頭皮を伝い、ホセの額を流れる。
『雨の中で傘を広げるなというのもおかしな話だが。止してくれ。あいつの為にも。』
妙な言い回しに違和感を覚えた。あいつとは誰の事を指しているのか。ホセは思わず手を止めて、暫く固まってしまった。それに、傘の声はホセの行動に文句を付けた事など今まで一度も無かった為、咎められたという事実に驚いたというのもある。
「…………分かった。すまない。」
悪いことをしてしまったか、と反省しながら再び傘を閉じる。留め具を嵌め直し、元通りの状態にする。雨は未だに降り続いており、もう今更取り繕っても遅いというくらいには濡れてしまった。
『感謝する。』
それから宿に着くまでの間、傘の声とは一度も会話を交わす事は無かった。
――――――――――――
「着く頃になって止むとは……。嫌がらせとしか思えないな。」
結局、雨の中を傘も差さずに帰る羽目になったホセは濡れ鼠のような状態で部屋に戻ってきた。風邪を引いてしまう前に赤いジャケットを脱ぎ、服掛けへ雑に引っ掛け、雨水を吸って重くなった衣類をまとめて洗濯籠に放り込み、そのまま浴室に転がり込んだ。シャワーを終えて部屋に顔を出してみると、傘の彼は普段の調子に戻っている様子だった。暇そうにベッドに腰掛けて、天井の辺りを眺めている姿が見える。
『器用なものですね。』
ホセは一瞬何の事を言われているのか分からなかったが、すぐに自分の腕の事を指しているのだと分かった。普段は付けっぱなしにしている左手の義手を、シャワーの為に外していたのだ。肘下からすっぱり切り落とされたように何も無いそこは、断端の先端が丸まっており、残存肢は義手に締め付けられた跡で少し赤くなっていた。きっと彼は、ホセが片手で体を拭いたり下履きを履いたりする様を見て、先の言葉を発したのだろう。
「このくらい慣れてるよ。」
ホセは部屋着のズボンだけを履き、上半身裸のまま彷徨くと、昨晩買った酒のボトルに手を伸ばした。
『また飲むのですか。』
「勿論。こればかりは日課になってしまってるんだよ。」
ホセは短い腕でボトルを抱え込み、右手で蓋を開けた。
『よく眠れるまじないをかけて差し上げましょうか。効くかどうかは分かりませんが。』
ラッパ飲みで一口程飲んだ所で傘の彼に声を掛けられ、思わずボトルから口を離す。
「まじない?」
妙な事を言い出すものだ、と思いつつも、ホセはその発言に興味を示していた。
『酒を置いて。こちらへ。』
傘の彼はポンポンとベッドを軽く叩き、其処に寝るよう促す。言われるがままベッドに仰向けで寝転がると、彼はホセを覗き込み、暗闇のように真っ暗な瞳を細めて微笑んでいた。暗闇の奥に紫色の光が見えた気がした、と思ったのも束の間、彼の細い手が顔の前にかざされて視界を遮られた。
ゆらゆらと手を動かすと同時に、ホセの瞼が重くなる。目を覆い隠した後、その手を退ける頃にはもうすっかり深い眠りに落ちてしまっていた。
『……やはり完全に効くという訳ではありませんね。』
傘の声が独り言つ。その暗闇は、寝息を立て始めたホセをじっと見つめている。
『彼には複数のまじないがかけられている。私が干渉したものではない。出会った時には既にこの状態だった。』
静まり返った部屋に、誰にも聞こえはしない声が響く。
『一つは催眠……それもかなり深い。もう一つは、呪い。』
骨のように細い指がホセの頬を伝い、傷跡を撫でる。
『ああ、哀れな人だ。昨晩、貴方を寝かしつけるのは中々大変だったんですよ。』
――――――――――――
翌日、ホセは傘を片手に、再び情報収集の為に街へと繰り出していた。――というのは建前で、主に観光が目当てだ。昨晩は酒で気絶せずに眠れたお陰で、普段よりも上機嫌な様子だった。昨晩の雨で湿ったままの赤いジャケットは羽織っておらず、フリル付きの白いシャツの上から腰にサッシュを巻いている、比較的ラフな格好をしていた。貴族の証でもあるあのジャケットを着用しないというのは心苦しいが、この地に限ってはむしろその方が気楽で良いのかもしれないと感じた。
ホセは骨董屋の前で立ち止まり、目を輝かせながら商品を眺めている。見事な装飾の皿、煌びやかな壺、金が施された茶器、複雑な絵画。
「これはいい。装飾が美しいな。」
『貴方は先程からそういう類の物ばかり眺めていますね。』
楽しそうに骨董品を眺めるホセに反して、傘の彼はどこかつまらないといった顔をしている。ホセはというと品物を眺めるのに一生懸命で、まるで気にも留めていない。
「こういうのが好きなんだよ。綺麗なお宝なんかがさ。分かるか?」
『ふぅん。』
普段ならば、ホセの行動を観察するように背後から覗き込んだりする彼だが、今は少し離れた所に突っ立って唇を尖らせていた。
「このネックレスと……指輪も貰おうかな。」
『あーあ。無駄遣いですよ。』
何故骨董屋に来た途端に彼が機嫌を損ねたのか、ホセには心当たりが無かったが、普段喜怒哀楽を見せない彼があからさまに拗ねている様を見られたのは貴重な体験だと思った。それを話したら、暫く口を聞いてくれなくなったが。
結局この日は一日中あちらこちらへ歩き回って、ついでに情報収集も出来た。宿に帰ってきたホセはこの街周辺の地図を睨みながら、手元のメモに目的地への行き方について纏め始めた。航路や運行計画を練っていた頃に比べると小規模ではあるが、なんだか酷く懐かしい気持ちになる。
寝支度が終わる頃にはすっかり夜も更けており、今夜も眠る為に酒のボトルへと手を伸ばした。今までのようにラッパ飲みで気絶する程飲み干すのかと思いきや、今日はどうやら様子が違った。ホセはボトルをじっと見つめ、少し考え込んだ後、ほんの一口だけ酒を飲んだ。ゴクリ、と一度喉が鳴る程度の量だ。
『おや、それだけで良いのですか?』
その様子を見ていた傘の彼が声を掛ける。まさかその程度の量で眠りにつけるとは到底思えない。だがホセはその声に答えず、ボトルをテーブルに置くとベッドへ倒れ込んだ。幻覚を見据えた瞳が、前髪の隙間から覗く。
「……昨日の。またやってくれないか。」
聞き取れない程の小さな声だった。
『昨日のとは。』
「分かるだろ!……っ、まじないだよ!」
わざと聞き返してみたところ、期待通りの反応が返ってきた為、傘の彼は思わず笑ってしまった。
『あはっ!呆れた!もっと上手に甘えられないんですか。』
「――っ!」
ホセはかーっと顔を赤くすると、そのまま外方を向くように背を向けて毛布を被ってしまった。傘の彼にそう言われて初めて、自分が無意識に甘えてしまった事に気が付いたのだろう。もうとっくに他人に甘やかされ、寝かしつけて貰うような歳ではない。そう分かっているからこそ、自分の言動が恥ずかしくて堪らなかった。自分は何を口走ったんだ、やはり酒に逃げるべきだった、と後悔が頭を走る。何でもない。聞かなかった事にしてくれ。ホセがそう口を開くよりも早く、傘の彼は平然とこう言ってのけた。
『良いですよ。』
彼の声を聞いて、ホセは目を見開き、恐る恐る振り向いた。
『こちらへ来て。』
彼はぺたんと正座のような姿勢でベッドの上に乗っており、目を細めてにっこりと笑っていた。暗闇の目だ。ホセには、闇の中にある紫色の光がはっきりと自分を捉えているのが見えていた。そしてその死人のように細い手を此方に広げ、ホセを招き入れていた。
「あ……。」
ろくな声が出なかった。彼の視線に捉われたまま、目を逸らせずにいた。ゆっくりと上体を起こし、彼の近くに身体を寄せる。傘の彼は暗闇の目を更に細めて笑った。座っている彼に寄り添うように寝そべると、細い膝が丁度額の辺りに触れる。幻覚の彼に膝枕なんて出来やしないが、ひたりと身体の一部が触れているだけで充分だった。広げられていた青白い手がホセを包み込み、受け容れた。
『さあ、おやすみなさい。』
細い指がホセの髪を撫でる。心地が良い。ホセは何故か潤み始めた視界を閉じ、時折震える息を整えながら、深い眠りへと落ちていった。
――――――――――――
翌日、ホセはいよいよ彼に故郷とやらを見せてやる為に出発した。今日も肩章の付いた赤いジャケットは羽織っておらず、ワイシャツに腰布を巻いたラフな服装だ。交通機関を乗り継ぎ3つ程隣の街へ到着し、現地の人間に道を尋ねながら進んで行った。片手に傘を握り、片手で地図を眺めながら街並みを歩く。見上げる程の大きな木が立ち並ぶ通りには、木造の古い建物が多く並んでいる。その殆どが2階建の大きな物で、数メートル歩く毎に赤い提灯が通りを彩っていた。正直、貧しい街や寂れた街といった印象は受けなかった。
一時間程歩き続けた頃だろうか、ホセの後方で現地の人間が「おい!雨が降りそうだぞ!」と声を上げた。確かに空は急速に曇り始めている。周囲の仲間に知らせる為に呼びかけたのだろうその言葉は、ホセの耳にも入りはしたものの、その意味を理解する事は無かった。
『…………今日はもう帰りましょう。』
彼らの言葉を理解出来た傘の声は、ホセにそう呼びかけた。だが、ホセがその言葉に納得できる筈がない。
「はぁ?おいおい、ここまで来ておいて何を言うんだ!」
『間もなく雨が降ります。それも大雨です。此処に居るのは止しましょう。』
傘の声の声色は、何かに怯えているかのように弱々しいものだった。ホセは空を見上げた。確かに今から雨が降る。航海士なのだからそのくらい判る。しかし、目的地を目の前にして、それだけの理由ではい分かりましたと引き返すような性格では無かった。
「サッと行ってサッと帰れば大丈夫さ。ほら、急いで行こう。」
『…………。』
ホセは目的地へ向かって足早に突き進んだ。それ以上傘の声は強く抗議することは無く、すっかり黙り込んでしまった。石畳の道が、雨水でポツポツと濡れ始めた。
――――――――――
「着いたぞ。」
石橋の上に立ち、傘に呼びかける。雨は少しずつ強くなってきており、雨水が目に入らないように手で小さな屋根を作る必要があった。
「君の他にもう一本傘を持ち歩く必要があるな……。」
想像するだけで滑稽な姿だ。辺りを見渡すと、人一人見当たらない。それもそうだ、こんな雨の中、傘も差さずに橋の上に突っ立っているホセは、側から見れば狂人だろう。
「……おい、どうした。また留守なのか?」
いくら待てども、傘から返事が返って来る事は無い。
「何だよ。君が見たいと言うから態々来たんだぞ!」
ホセが声を荒げる。当然だろう。この為にヨーロッパから遥々中国までやって来たというのに、いざ目的地に到着したと思えば当の本人は無反応だ。何の為にここまでしてやったのか分からない。
「はぁ……。全く……。」
大きなため息を吐き、橋に手を掛けた。傘の声が突然何も言わなくなる現象は、今までも何度かあった事だ。騒ぎ立てても仕方がない。眼下に流れる川を見つめ、暫く待つ事にした。雨は降り続いているが、もう濡れ鼠になるのも慣れたものだ。
『此処は?』
どのくらい時間が経ったのだろうか。突如声が響いた。ホセは驚いて跳ねそうになったが、踏み止まった。
『……まさか。南台橋か。』
低く響く声だ。それが普段の傘の声とは違うと、ホセは瞬時に気付いた。あの時と同じだ。確か、雨の中で傘を広げようとした時に咎められた、あの時の声をしている。ああ、あの時も雨が降っていたのか。
「そうだ。」
ホセは傘の問いに答える。隠したつもりではあるが、声色に少しの警戒心や驚きが混じってしまったかもしれない。暫し沈黙が続き、雨の音だけが響いた。
『…………私達は此処で死んだ。』
傘の声はそれ以上何も言わなかった。ただ、そこに居て、黙っていた。
「………………そうか。」
ホセは言葉を選んでいたが、口から出てきたのはそんな短い台詞だけだった。死んだ場所か。と胸の中で噛み締める。傘の彼がどうしても行きたい場所だと言うものだから、余程の思い出でもあるのかと思ったが。そうか。此処で死んだのか。ホセは心の中ですとん、と腑に落ちるものを感じた。それからお互い何も言わず、ただ雨の中、橋の上で川の流れを眺めていた。
雨が酷くなってきた、帰ろう。そう言ったのはどちらだったか。一先ず何処か服屋でも見つけるべきだろうか。3つほど隣街にある宿まで帰るには交通機関を乗り継ぐ必要がある。こんな全身濡れ爛れた格好のままで乗れだなんて御免だ。みっともないったらありゃしない。
そんな事を考えながら歩いていたせいか。雨で視界が悪かったせいか。もしくは、左目が義眼だったせいか。気付かなかった。左後ろから、人が迫って来ている事に。
片手に傘を持ち歩いているホセの後方から近付いてきた男は、すれ違い様にホセの手から傘を奪い取り、そのまま走り去って行った。
「えっ……、」
引ったくりだ。
「!待てッ……!おいっ!」
すぐに反応したホセは、すぐさまその男を追いかけた。まずい。最悪だ。最悪だ。それだけは絶対に盗られる訳にはいかない。急激に肝が冷える。冷や汗をかいて男の跡を追う。だが男は常習犯なのだろう、狭い路地に逃げ込まれてしまい、確実に距離を離されていく。一定の距離まで傘が離れてしまった所で、突如、ホセに激しい頭痛が走った。
「ッ……!?ゔ、っ、あ………ッ」
久しく感じていなかった痛みだ。頭をギリギリと締め付けられる、あの痛み。ホセは思わず足を止めてしまい、その場に蹲った。
「う、ああ、駄目、駄目だ。駄目だ……。」
痛い。痛い。痛くてたまらない。駄目だ。こんな所で蹲っている場合じゃない。あいつを追わないと。痛い。駄目だ。傘が。痛い。行ってしまう。駄目だ。思考がぐるぐる歪む。涙が溢れて来る。今すぐ立ち上がって追いかけたいのに。上手くいかない。
「ッぅ、う、う……。」
こんな形で別れるなんて。絶対に嫌だ。行くな。行かないでくれ。何処にも行くな。頼む。駄目なんだ。嫌だ。
「行かないでくれ……。」
ホセの声は誰にも届かず、雨の音にかき消された。
地元の人間も知らないような路地裏に逃げ込んだ男は、周りに誰も居ない事を確認し、ようやく足を止めた。観光客を狙った引ったくりを繰り返し、同じような手口を今まで何度も使ってきた。
「へへ……骨董品の傘か。宝石も付いてんなら、それなりの値段で売れるかもな。」
男は傘をじろじろと眺めながら独り言つ。そして、薄汚い手で留め具を外すと、そのまま勢いよく傘を広げた。
――――――――――――
「ぅ……、っ、う……。」
雨は降り続いている。ホセは覚束無い足取りで、なんとか前に進んでいる。頭痛が酷い。頭が割れてしまいそうだ。それでも、傘を追いかける為に動いた。よろよろと歩みを進め、複雑な路地裏へ入り込む。初めて来る場所だ、土地勘なんてありはしない。しかし頭のどこかで感じる「傘の気配」だけを頼りに、此処まで追いかけてきた。これも要するに勘と言われるのだろうが。――このまま見つからなかったらどうしよう、という不安だけがホセの中に広がっていた。あの傘が無ければ、どうすればいい。どうしたらいい。不安で胸が張り裂けそうだ。その時はきっと、生きる目的を無くしたのと同義だろう。
「……あ、」
ある角を曲がった所で、人影が目に入った。蜃気楼のように揺らめくその影は、凝視しているうちに段々と鮮明になっていった。背の高い男だ。大きな襟の付いた、袖の長い中華服を着ている。こちらに背を向けているせいか、床に着きそうなほど長い三つ編みがよく見える。彼はゆっくりと振り向き、ホセに視線を向けた。その瞳は暗闇に包まれているが、闇の奥に宿る光は金色に輝いていた。彼の足元にもう一人、男が倒れている。ホセから傘を奪った、引ったくりの男だ。うつ伏せの体勢で倒れている所為で、水溜りが出来た地面に顔を着けてしまっている。息をしていないのだろうその男は、ぴくりとも動く様子は無かった。その倒れている男の手元。水溜りに浸るように、傘が転がっていた。留め具は外されているが、見慣れた閉じ身の状態だ。奇妙な文字の書かれたお札がべたべたと貼り付けられているそれは、紛れもなくホセが追い求めていた、奪われた傘そのものだった。
「あぁ……!あ……!」
ホセはふらつく足のまま駆け出した。そのまま転びそうになり、水溜りに膝を付いてしまっても構わずに、傘を目指して一直線に駆け寄った。ずっとその視線は傘だけに注がれていて、隣に倒れる男に目を向ける事など一瞬も無かった。
「ああ……よかった……よかった……!」
ホセは濡れた手で傘を抱きしめた。降り注ぐ雨の中、恥も何もかも捨てて泣き喚いた。背の高い中華服の男はホセの側に立ったまま、黙ってその光景を見続けていた。
――――――――――――
その日、奇妙な死体が発見された。地元の貧民――窃盗犯の男の死体だ。路地裏で倒れていたにも関わらず、死因は「溺死」だと判明した。肺の中には、海や川で溺れた時と同じ量の水が入り込んでいたという。いくら雨の中だったとはいえ、奇妙な話だ、と人々は首を傾げた。
――――――――――――
とぼとぼと帰路を歩く。雨は先程よりも勢いを弱めたが、止む様子はまるで無い。ホセは腫らした目を伏せ、視線を地面に落としながら、意気消沈した様子で足を進めている。その両手はぎゅっと傘を抱き締めており、もう二度と奪われないように、胸の前で硬く抱えていた。
ホセの隣には背の高い男の幻覚が並んでいる。普段ホセと行動を共にしている彼と同じ格好をしているが、纏う雰囲気はまるで違った。
「……君は、彼じゃないね。」
ホセが口を開くと、背の高い男は感心したように反応を返した。
『ほう、分かるのか。私達は殆ど同じ外見だというのに。』
「分かるさ。」
確かに外見は全くと言っていい程同じだ。初めて見た人物なら判別がつかないだろう。しかし佇まいも、喋り方も、目の色も、話してみれば性格も、何もかも違う。ホセにはそれが分かった。
『何故此処に来た?お前はこの地の人間ではないだろう。』
幻覚が尋ねる。彼の口振りからするに、普段の傘の彼とホセの会話を全て把握している訳ではないのだろう。
「彼が、来たいと言ったんだ。この地が今どうなっているのか見てみたいと、そう言っていた。」
正直に、此処まで遥々やって来た経緯を話した。もう一人の彼に頼まれた事。自分がそれを承諾した事。ホセの隣に並ぶ幻覚の男は、ホセの言葉を聞いて少し驚いたようだった。
『そうか、必安が。』
彼の口から聞き慣れない単語が出てきた。ビーアンと言ったか。ホセは伏せていた顔を上げ、幻覚を見つめた。背の高い彼は、淋しそうに笑って、懐かしむ目で周囲を見渡していた。察するに、普段話している彼の名前なのだろうか。
「ビーアン……。そうか、彼はビーアンというのか。」
噛み締めるようにそう呟く。彼の事を一つ知れて、なんだか喜ばしい気持ちになった。
「君にとっても、此処は故郷なのか。」
『そうだ。……だが、数百年経っても大して変わっていないな。』
幻覚の彼は歯を見せて笑っていた。こうして見ると、笑い方までも必安とは違う。
『あの橋だって、建物だって、人間さえも、私達が居た時とまるで変わっちゃいない。はは、拍子抜けだな。』
彼が周囲をぐるりと見渡す度に、長く結われた三つ編みが揺れた。張本人である必安にこの景色を見せる事は叶わなかったが、代わりに目の前の彼が見てくれている。それだけで充分な気がした。ホセはなんだか気が緩んでしまって、身体の力が抜けてきた。
「え、あ……あれ。」
ふらふらっとその場に倒れ込んでしまう。頭がぼーっとして、体調が悪い。普通の人間よりも長旅には慣れている筈なのだが。雨に打たれ続けた所為か、または精神的な疲労が原因か。意識が遠のくのを感じる。
「あー……はは、まずいな……。」
小雨の中、傘を抱きしめたまま座り込み、苦笑いする。足に力が入らず、立ち上がれない。視界にノイズがかかる。
『……おい。立て。』
彼の声が聞こえたが、返事を返せない。立たなければ、歩かなければと分かっているのに、だんだん思考すらも出来なくなって、意識を手放した。
『…………。』
座り込むホセの目の前で、傘の彼はじっとそれを見下ろしていたが、大股を開いてしゃがみ込んで、ホセの頬を平手でべちんと打った。しかし、ホセがそれに反応を示すことは無かった。
『ちっ……。弱いな。』
彼はそうぼやくと、ふっと姿を消した。同時に、がくん、とホセの身体が大きく痙攣を起こした。その見開かれた目はまるで焦点が合っておらず、何処を見つめているのか分からない。やがて抱きしめていた傘を杖のように支えにして、ゆっくりと立ち上がる。大きく首が揺れる。覚束無い足取りではあるが、着実に足を進めて帰路を行く。生気無く歩くその姿は、東洋のゾンビを連想させた。
――――――――――――
ホセは宿の自室で目を覚ました。
思わずベッドから跳ね起き、周囲を見渡す。間違いなく、宿泊に利用している普段の宿そのものだった。昨日はあの橋を見に行った筈だ。現地で意識を失って、それからの記憶が一切無い。どうやって此処まで帰ってきた?
『やっと起きましたか。』
声が響く。視線を横にやると、ベッドの上に腰掛けている彼の姿が目に入った。昨日話していた彼ではない、普段の、必安だ。
『中々起きないから死んだのかと思いました。』
「ビーアン……。」
その名を口にすると、必安は酷く驚いたような顔を見せた。
『何故、その名を。』
必安はそう言った後すぐに『あっ……。』といった表情になり、何かを察したようだった。
「私はどうやって此処まで帰って来た?何も覚えていないんだ……。」
『さて。私も存じ上げません。貴方が全身ずぶ濡れで帰って来て、服も脱がずにそのままベッドに寝ていた事しか見ていませんので。』
「ふ、服も脱がずに……?」
必安にそう言われて初めて自分の格好を確認してみると、昨日の服装全くそのままだった。雨水を吸い、ぐしょぐしょに濡れ爛れた服を着たまま、髪や体を拭きもせずに、そのままベッドに横になり、眠りこけていたという。シーツは水を吸い、身体は当然の如く冷え切り、寒気が走った。
「はっくしょい!」
間違いない。確実に風邪を引いた。
――――――――――――
怠い身体を引き摺り軽くシャワーを浴びた後、宿の人間に謝罪し、チップを多めに渡してシーツを替えて貰った。すっかり綺麗になったベッドに潜り込み、今日一日大人しくしている事にする。
「体調が回復したら、もう一度彼処に行こうか?」
毛布に包まれたホセがそう尋ねる。異国の宿で風邪を引くという最悪のシチュエーションではあるが、不幸中の幸いか、常に隣に話し相手が居るというのは有り難い事だった。
『何故?もう行ったではありませんか。』
必安は相変わらずベッドの上に座り込み、ホセの隣に寄り添っていた。
「しかし君はまともに見れていないだろう。見たいと言ったのは君だ。」
『……それは……そうですけど……。』
必安はどこか歯切れ悪く答えた。
「何だよ。遠慮でもしてるつもりか?」
『……私が見ていないという事は、彼が居たんですか。』
「彼……。もう一人の方か。」
『会ったんですね。』
先程からどうもはっきりしない物言いが続く。必安にしては、気が沈んでいるというのがはっきり伝わってくる話し方だ。珍しいと思いながらも、ホセは話を聞いてみる事にした。
『……失敗したなあ。彼に見せるつもりは無かった……。私だけこっそり見られればそれで良かったんです。』
「…………。」
ああ、成程。もう一人の彼によると、必安達はあそこで死んだとの事だった。数百年経ったとはいえ、死に場所を見せて、嫌な記憶でも思い出させたんじゃないかと案じているのだろうか。それか、冷やかす為だけに態々来た事を知られて恥ずかしいやら何とやら、か。
「馬鹿だな。」
『真面目に言ってるんですよ私は。』
少なくともホセの目から見た様子では、もう一人の彼は何も気にしてない様子だった。それどころか、笑っていたし。
「彼処で死んだんだと言っていたよ。」
『ええ。そうです。』
「大して変わっていないと言って笑っていた。」
『そう、なんですか。』
必安の表情は、顔面の黒い模様の所為もあって読み取りづらいが、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
『なぁんだ。拍子抜けですね。廃れていたら、大きな声で笑ってやろうと思っていたのに。』
「まだ見たいと思っているか?」
『いえ……。別に構わないという気持ちになってきました。彼が私の代わりに見てくれたのなら、尚更。』
「そうかい。」
穏やかな空気が流れた。つまり、これでホセ達が中国に来た目的は達成出来たという訳だ。ホセの心の奥底で、この日々が終わってしまうのは惜しいという気持ちが生まれたが、それを見なかった事にした。
――――――――――――
「昨日、君を盗まれた。」
『私を?それはそれは。災難でしたね。』
ホセは昨日の遠出で起こった事を必安に聞かせていた。引ったくりに傘を奪われた、あの時の事だ。
「傘が私の手から離れて、……自分でも信じられないくらい、みっともなく動揺した。」
意識外から突然傘を奪われたあの時、遠ざかっていく傘を必死で追いかけた。苦労して手に入れたからだとか、とても価値のある骨董品だからとか、そんな理由は全く頭の中に浮かんでこなかった。ホセの中にあったのはただ一つ、「一人ぼっちにしないでくれ」という叫び。置いて行かないでくれ。その一心だった。
「運悪く頭痛にも襲われたんだ。絶望だよ。このまま死んでしまうんじゃないかと思った。」
『大袈裟ですよ。』
「…………。」
ホセにとっては大袈裟なんかでは無い。全て本当に思った事だ。絶望。その言葉で表すのが最適だった。必安はホセが黙り込んだ事を察してか、ホセの額に手を当て、髪を撫で始めた。細い指の隙間を前髪が流れる。
『もう寝なさい。』
余計な事は考えず、身を委ねろと、そう言ってくれているような気がした。
「ああ……。」
心地良い。幻覚であるのに、撫でられていると意識すればその存在を感じられる。さらさらと不規則に髪を撫でられ、眠気がすぐ側までやって来た。またまじないを掛けてくれているのだろうか。
「……どこにも行かないでくれ……。」
無意識だろうか、うわ言のように、ホセの口からそんな言葉が漏れる。
『行きませんよ。』
と言うか、行けません。と冗談めいて返した必安の言葉は、ホセの耳に届いているのかどうか分からない。すっかり眠りに落ちたその目尻には、静かに涙が伝っていた。
――――――――――――
ゆっくり休んだお陰か、ホセの体調はかなり回復した。早いもので、そろそろ宿に宿泊して一週間が経つ。数日後には中国を発たなければいけない。ホセが目指すイギリスへ向かい、傘を差し出す為に。
『次は此処へ行ってみましょうよ。』
『此方の国も見に行きませんか。』
「…………。」
しかし必安は何故かこんな調子で、彼方へ行きたい此方へ行きたいと提案を出すようになった。今まではこんな事言い出したりしなかったのに、突然だ。最初の一日は、まあ付き合ってやろうという気持ちにもなり、様々な店に行ってみたりしたのだが、そう何日も続くと流石にうんざりしてくる。
「どうしたんだよ。急に我儘を言い出して。」
『何って、まだ旅行し足りないのですよ。』
「そう言って、私を足に使いたいだけだろう。金だって無限にある訳じゃないんだ。」
荘園で受け取った賞金は、そりゃあ飛び抜けた額ではあるが、使い続ければいずれ底をつく。そんな事くらい必安も分かっているだろう。
『貴方こそ、英国へ行きなくないでしょう?』
「何?」
不意の言葉だった。ホセは咄嗟に必安の顔を見つめると、細められた瞳と目が合った。
『そうだ、いっそのこと、この地に住むというのはどうです?』
何だ?何を言っているんだ、こいつは。私がイギリスへ行きたくない?この地に住む?突然叩き込まれた言葉は、どれもこれも突拍子もなくて意味が分からない。
「何を、言ってんだ。」
ホセの額に汗が滲む。必安の言葉を聞いて、何故か動揺している。
「そういう訳には……。いかないだろう。」
『そうですか?通訳だってしますよ、私が。私が居れば会話に困ることもない。私が居れば頭痛に悩まされることもない。私が居れば話し相手に困らない。私が居れば寂しくはない。そうでしょう。』
必安の目はホセを見つめたまま揺るがない。きっとこれは、雑談だとか世間話の類なんかじゃない。必安は本気でこう言っている。
「だ、駄目、駄目だ。私は……イギリスへ行って……。」
『本当に行く気ですか?』
必安の目はもう笑ってなどいなかった。
『貴方はもう、この傘無しでは生きていけない。分かっているでしょう?』
「やめろ……。」
やめてくれ。それ以上は言わないでくれ。
『この傘をその女王とやらに渡したら、貴方はどうなる?きっと正気では居られない。まともな生活なんか出来ない。いずれ狂って死ぬでしょう。』
「やめろ、やめろ!」
ホセは思わず両耳を塞ぎ、大声を張り上げた。それ以上聞きたくないと言わんばかりに塞ぎ込むその態度は、まるで子供のようだった。
「私は皆に会うんだ!父に……仲間達に……!」
『私では駄目なのですか。』
必安のその言葉を聞いて、ホセははっと顔を上げた。汗が顔を伝い、息が止まった。目が合った必安は変わらずホセを見つめていて、それが茶化しや冗談なんかではないと分かった。暫くそうやって目を合わせていたが、先に視線を逸らしたのは、ホセの方だった。
沈黙が続き、次第に窓の外から雨の音が響き始めた。
――――――――――――
ホセはベッドに寝そべったまま、ぼーっと考え事をしていた。明日には宿を出て出発しなければいけないというのに、荷物を纏める気にもなれず思想の海に潜っていた。先程必安に言われた言葉が耳に焼きついて離れない。部屋の窓に雨粒がぶつかっている。雨が降り始めたせいか、いつの間にか必安の声は聞こえなくなっていた。
『どうした。』
いつからそこに立っていたのか、必安ではない、もう一人の彼の姿が見えた。ホセがあまりにも正気の無い顔で考え事をしているから、思わず声を掛けてしまったという所だろう。
「…………ビーアンに、イギリスへ行くのはやめようと、この地で暮らそうと、そう言われた。」
『必安が?そんなことを?』
彼からしてもそれは意外な発言らしかった。興味深そうに此方に耳を傾けてくれている。
『っはは、驚いたな。あいつが一人の人間に固執するなんて。』
そう言葉を漏らしながら、彼はホセの側まで近寄って来た。
『それで?お前は?』
「…………。」
ホセはどうするつもりなのだ、と聞いているのだろう。しかし今、その質問に対する答えを用意する事は出来なかった。言葉に詰まっている事を察してか、彼は再び口を開いた。
『我々鬼使いとして言うべき台詞はこうだ。嗚呼、なんて悲惨な人生だろう。いっそのこと此処で死ぬがよい。そしてその魂を我々に寄越せ。だとかな。』
鬼使い。聞いたことの無い言葉だが、恐らく彼らの事を指すのだろう。目の前に立つ彼は言葉を続けた。
『しかしどうだ、必安ときたら!共に暮らそうだとさ!あっはは!おかしなことを言うものだ!』
彼は可笑しくて堪らないといった様子で、歯を見せてけたけた笑っていた。ホセはというと、戸惑っていた。何故そんな話をするんだ、私にどうしろって言うんだ、と考え、彼の意図をはかりかねていた。
『雨が上がるまでに考えろ。あいつは一度言い出すと頑固だぞ。』
彼はにたりと口角を上げて笑った。
――――――――――――
雨は降り続いている。ホセは未だに毛布に包まり、答えを出せないままでいた。その手の中には、金色の懐中時計が握られている。父から受け継いだ、一族に伝わる大事な物だ。錨と波の装飾が施されたそれを握りしめ、指先で撫でていた。
もうすぐ父と仲間に会える。喜ばしい筈なのに、必安の言葉が頭の中から消えない。「英国へ行きたくないでしょう?」だと?そんな事があるものか。仲間を取り戻す為に、探し求めた傘だって手に入れたんだ。全てやめてしまおうと、そう言われているのと同義だ。
懐中時計をきつく握りしめ、目を閉じる。思考の中のホセは港に立ち、海を見つめている。地平線の向こうから、船の影が現れ、此方に近づいてくる。ホセは大きな声で呼び掛けながら手を振り、彼らの帰還を歓迎する。船長である父、乗組員の仲間達、船の上に並び立つ彼等は、全員がホセを見つめているが、その顔をはっきりと視認する事は出来ない。まるで霧がかかったように、容姿が見えない。思い出せない。ホセは彼等の名前を呼ぼうとした。しかし、喉まで出掛かっているその言葉は、引っかかって出てこない。分からないのだ。彼等の名前を思い出せない。船の名前も、港の名前も、分からない。覚えていない。顔も分からない彼等が、ホセをじっと見つめている。
「はっ……!」
ホセは汗だくで目が覚めた。毛布の中で、今見た夢の事を思って、愕然とした。
目が覚めた今でも、彼等の顔を思い出せない。
急に涙が止まらなくなって、一人、さめざめと泣いた。
――――――――――――
次に必安が現れた時、ホセは目を真っ赤にして、ベッドの上に蹲ったまま、両手で傘を抱きしめていた。もう雨の音は聴こえない。
『寝ていないのですか。』
「……ビーアン…………。」
情けない声だった。少し震えた、不安で堪らないといった声だ。
「ビーアン、私は、私は最低の人間だ。彼等の顔を、思い出せないんだ。夜通しずっと思い出そうとした。でも駄目だった。名前すらも分からない。大事な……、大事だった、筈なのに……。」
ホセは今にも泣き出しそうな声でそう話し出した。それを見た必安は、静かにホセの隣に座った。
「イギリスだって……。行きたくない。はぁ……。最低だ。最低だ。父に会う為にここまで来て。人を……。彼女を、殺めてまで、手に入れたのに。そうまでして手に入れたこの傘を、誰にも渡したくない……。離したくないんだ。これが無いと私は、駄目なんだ。もう。これがないと、私は……。」
後半は殆ど泣きながら話していた。抱きしめた傘に額を擦り付けて、傘に貼り付けられたお札には、ホセの涙が滴っていた。
「ビーアン……、君の言う通りだ。傘が、これがないと私はきっと。狂って死ぬ。これがないと頭痛が酷いんだ。これがないとまともな生活なんて送れやしない。これがないと話し相手も居ない。私は、一人ぼっちになってしまう。嫌だ……。嫌なんだ……。」
『ええ。ええ。』
ホセの話を聞きながら、必安はホセの背中に手を当て、ゆっくりと摩っていた。それさえもホセにとっては心地良いものだった。
「ビーアン……。君を、渡したくない。ずっと側に居てくれ……。」
涙でぐしゃぐしゃになりながら、そう伝える。必安は空いている方の手も伸ばし、ホセを包み込むように軽く抱きしめた。
『ええ。勿論。通訳だってしますし、話し相手にだってなります。毎日寝かしつけてあげましょう。』
「ビーアン……、ビーアン……。」
必安は目を細めて笑った。
『貴方って、案外泣き虫ですよね。』
慈しみを込めた視線でホセを見つめると、再び背を摩りだす。ホセは必安の腕の中で、傘を抱きしめたまま、みっともなく泣き喚いた。
――――――――――――
宿を出てから、荷物を抱えたホセは行く宛もなく街を歩いた。片手に傘を持ちながら、べらべらと会話する。これから何処に行こうか。山奥に家を買って、そこに住むというのはどうか。それは不便すぎる。それなら波の音が聞こえる場所がいい。それともこちらの国に行こうか。やはりこちらに。
側から見れば大きな声で独り言を話すイカれた異国人だ。だが当の本人はそんな事微塵も気にしちゃいない。白いフリルシャツに腰布を巻きつけた格好のホセは、肩章のついたジャケットを羽織ってはいなかった。
明確な行き先が決まるまでは、当ての無い旅をしよう。二人で話して、そう決めた。ホセの手元には着替えの詰まったトランク。懐中時計。大量の金。骨董品の傘。身軽に見えるかもしれないが、充分だ。荷物がこれ以上増える事は無いだろう。もう、酒を山程買い込む必要は無いのだから。